昭和40年05月23日 朝の御理解
あれは、本居宣長と云う人の歌だったでしょうか、「敷島の大和心を人とわば、朝日に匂う山桜花」ですかね、えー、日本人の魂、心を人が尋ねたならば、こういう風に答えるだろうと、なるほどよく日本人の気持ちを端的に現してある歌だと思うのですね。「敷島の大和心を人とわば、朝日に匂う山桜ばな」、パーと咲いておる、パーと散る事を潔しとしてあるような精神なんですね。ところが、だんだん時代が変ってまいりますとですね、そういう一つの考え方と言った様なものは変ってくる。
昨日お風呂入っておりましたら、一番下の栄四郎が、もう顔に一杯この墨を付けて帰ってまいりました「お父さんと一緒にお風呂に入る」と。汚れたまま風呂に入っちゃならんから、入る前によく洗ってから入らなければでけんというて私があの、へちまのタワシでですね、石鹸を付けて、顔から体からごしごし洗うてやったのです。なかなかその墨を付けておりますから、その、こすらなければ落ちないのです。
「痛か」て。私が申しました。昔ね、乃木大将と言う人がおった。その、小さい時の名前を≪那希人≫と言った。≪乃木希典(まれすけ)≫の事ですたいね。私その話をしたのは、少年時代の話を、風呂に入ってからするのですよね。ある朝、大変寒いその冬の朝だった。寒いて言わっしゃった。それからお父さんがね、寒いならちょっと表出てこいて。言うてその、≪那希人≫少年をまっ裸にして、それで井戸に連れて行ってから、頭からその冷たい水をかけなさったげな。ね。
もうそれっきり寒いとかをいわっしゃらんようになったと。ね、だからあの、乃木大将と。と言われるような立派な人にならしゃったのじゃと、その話しましたらですねこういう事をいうのですよ。私それを聞かせて頂いてからなるほどなあ、考え方というものが変わるもんじゃなあという事です。「ああーあれはあんた、愚連隊の親玉じゃろうもん」とこう言う。(笑)ね、「僕たちそんな事でけん」とこう言うわけですね。「やはり寒かなら寒か、痛かなら痛かち言う」ち言うわけなんですよ。
本当に私はですね、考え方といったようなものはね、その、やはり変るものだと言う事ですよ。同じいうなら人間、人の魂を一口で表現しろと言ったら、恐らく本居宣長が言った、そういう事ではもう私は的確ではないと私は思うのです。ね。主の為に死ぬとか、ね、もう武士道とは死ぬる事と見極めたとか、といったようなその、思想とか、考え方といったようなものはです、もう、今の日本人にはぴったり来ないのです。成る程乃木大将を「あれは愚連隊の親玉だ」と栄四郎は言っております。ね。
ところが、ね、これだけは変らんというものがあるですね。私は皆さんに、椛目で信心をする人達の姿というものはね、大体金光様のご信心とはどげな信心のと、いや、大体椛目はどげな事を教えるのと、と例えば身近な事から言うとですたい、ね、金光様のご信心というては、あまりに大きいでしょうけれども、椛目ではどういう事を教えられるかと、いわゆる椛目魂というのはどういうものかと問われた時にですたい。
皆さんならどう答えられるですか。しかもこれならです、いつの時代でも不変だと私は思うのです,変わらない。椛目、ね、人間が人間としてある限り、神様は神様としてあられる限り、これだけは変わらない、大和魂の考え方は変ってもです、ね、お道の信心精神というか、椛目精神というか、それだけは変わらないと。皆さんならそれをどう答えられるだろうか。ね。
「此の方は人が助かることさえ出来れば」と、教祖の神様はおっしゃっておられる。そこで私共は、やはり、本当に助からなければならん。信心によって教えによってです、ね、私共が真実助からなければいけない。その助かると言う事はどういうような事か。ね。いつの時代だってです、助からんで良いというような時代はまず来ないだろうと思う。ね。本当に助かりたい。
しかもその助かり方がです本当の助かり、真実の助かり、これを求める心は、不変のものであり、いつの時代でも同じであろうと、そこで本当の助かり方、いわゆる椛目魂というか椛目の精神というか、そういう信心の、精神をです自分のものにさせてもらい、自分の家のものにさせてもらい、それを子に孫に伝えていけれる、信心を体得しておかなければならないということなんですね。
昨日でした、あるご婦人の方がお参りしてみえましてから、毎日参ってみえられるのですが、「先生おかげを頂きましてから私のほうの、長男の嫁をもらいましてから五年になります。ね。本当にお恥ずかしい話でございますけれども、ようやく五年がかりでここまでおかげを頂く事が出来ました」と。こういう風に言われるのですよ。ね。「私の家のしきたりとか、私の家の流儀とか、風というものがどこにでも家にしきたりがある。ね、それを、嫁が五年の間に、体得してくれた。ね。
私はおかげを頂いてから嫁が持ってきてくれたです、ね、その嫁の良いところと言うか精神というか、それをようやく恥かしい話だけれども、五年がかりで分からせて頂きまして、ね、嫁の家の里の良いものと私共の家の良いものが一つになって、このまま五年が10年たって参りましたら、どういう有りがたい事になるだろうかと思います」というような意味のお届けがあったのです。ね。
嫁にこれを分からせなんならんと。これを分からせなんならんと、いうのではなくてです、ね、お互いがです、よいものを頂きあおう、頂きあおうとするところにです、嫁も助かり姑も助かるという、その家全体がです、今までなかったその家には、なかった有り難い雰囲気までもが生まれてきて、ね、お互いが、ね、摂取し合うというのでなからなければです、ね。家に来た、ならば、家の流儀になってもらわなければならんと、言った様なものでもなくてです。
お互いの良いものと良いものが交流しだして私が助かり嫁が助かり、私の家中の中にそうした有難い雰囲気がです、五年経った今日、ここまでおかげを頂いておる。これが六年経ち10年経ちしていく内にはです、どういういよいよ有難い事になってきておるだろうかと、楽しんでおられるいわばお礼のお届けだったんです。聞かせて頂いてから、そういう助かり方なんだと。私は思うのです。ね。
不平があり不足があり、嫁がああしてくれれば良いのにと、お母さんがああしてくれれば良いのにと。例えば思い続けた五年間、ますますその思いは募るばっかりだと。お互いの足元ばっかり見ておったり、不平を感じ不足を思うておる時には、その人の助かりはないと私は思うね。私は助かると言う事ね。助かると言う事はです良いものを頂きたい良いものを頂きたいと、という願う心からしか助かりは頂けないと思うのです。
そこに私共の助かっておるという、私共の助かっておるという。助かっておる状態とゆうものをいつも検討しておかなければならないと言う事。病気を治らせて頂く事は助かることだろう。ね。経済のお繰り合わせを頂く事も助かることだろう。様々な人間関係の上においてです、ね、もつれにもつれておる事情が解決していくと言う事も助かることに違いはないと思うのですけれどもね、ね、その根本になるものは、教えによって私自身が真実不平を言わんですね、不足を言わんですむというような助かり方。
私は思うのです、自分がどの程度に助かっておるかと言う事はです、果たして自分の周囲の誰彼のことをどれだけ祈っておるかということだと思うのです。実感的に。ね、お道の信心をさせてもらい、自分のことより人の事。ね、自分一家の事より他人のことも祈らせて頂かなきゃならんと言うて祈っておるのではなくてです、これは、私は本当の助かりではないと思うのです。
例えばそうでしょうが。いうならば助かりと言う事はです、ね、自分が生きておると云う事。日々こうやって、雨露をしのがせて頂いて、ね、腹をほさんですんでおるということ、その事自体が助かっておることなんだけれども、助かっておるという自覚がなかったら助かりじゃないです。心の中に不平、それでも不平不足を言うておるならば、助かっておるとじゃないです。いうなら自分自身が泳ぎが出来ずしといてです、おぼれておる者を助ける事は出来んのです。
そうでしょうが。自分自身が不平不足を言いよってからです、隣の誰彼を祈りよりますと言うたっちゃあんた、自分自身が助かっていないものが、助けられるはずがないじゃないの。ね、だからそういう意味でですたい、誰彼のことを祈っておるといったってそれはほんなものじゃないと言う事。ね。自分が、アップアップ言いよってからですたい、心の状態がですよ、自分が心の中にいつも不平を感じて不足を感じておりながらです、人の事を祈っておるなど、どっちかと言うとおこがましい。
自分がアップアップ言いよってから、人を助けられる筈がないでしょうがね。そこで私はまず自分自身が泳ぎを覚えなければいけないと言う事。自分自身が信心によってです、不平不足をいわんで済む様なです助かり方に先ず自分自身がならせて頂いて、その余りがです、嫁の事を願い息子の事を願い、家族中の事を願いね、隣近所の事を祈らせて貰うと言う様な範囲がです段々広げられ、推し進められていくという事です。ね。
先ず自分が助からなければいけません。はぁ私はもうお広前の事ばっかり祈りよりますとね、それがまあ殊勝な事、有難い事なんですけれどもですね、自分自身が助かっていない。まず何といっても自分自身の助かりの為にです、信心がなされなければいけません。そして不平を言うのではない不足を思うのではない。信心の教えをもってするならばどういう中にあっても、今日只今只今からでも助かる事が出来ると云う事。
自分の心の事ですから。ね、そういう助かりの心を持って自分の家族の誰彼の事を祈られるようになり、隣近所の事が祈れれるようになり、ね、お広前全体の事が祈れれるようになるという祈りならば必ずその祈りが助ける事が出来るおかげになってくるとこう思う。そうでしょうが皆さん。ね、その為にはやはり、先ほど申しましたようにある婦人のお届けのようにです、私と嫁の間にです、また私の一家の上にです。
こういう雰囲気がです、いよいよ、6年が10年経っていく内にです、どういう有り難い事に、なっておるだろうかとそういう夢がです、助かっていっておる中心になるのは、その婦人の信心だと言う事になるでしょう。婦人自身が助かっていっておられるからこそです、人に求めないのです。摂取しようとしないのです。嫁にあああってくれれば良いのにと思わんのです。ね、
そして自分の助かりがです、いわば容易に分けてあげる事が出来るのです。ね。だから嫁は愈々豊かになっていく。愈々その人の家となりが身についていく。それだけではない。その嫁が持って来ておる所の良いものを又、私の家に頂きたいと言う様な、頂き方になってくる。そして今まで自分の家にはなかったです、良いものが嫁が来たおかげで、その良さというものは大きく膨れ上がっていくと言うわけなんです。ね。
大和魂の表現がです、ね、まあ、百年前と百年後の今日とはです、大変な違いをなして居ると言う事。私共の考え方ともう子供達の考え方だけででも大変な違いが有るという事。ね。けれども信心によってです、お互いが助かると言う事においてはです、いつの時代であってこれは不変のものだと言う事。とにかく椛目にお参りをさせて頂いたら、お道の信心をさせて頂いたらです、まず何というてもまず私自身が救われる。私自身が助かる事なんですよと。お参りしてごらんなさい、自分の心が楽になるですよと。
お話を聞いた途端にです私の心が助かるんですよと。その助かった自分がです、家内を助けて行き、子供を助けて行き、そういう働きになってくる。近所近隣のいわば、助かりの為に働きかけられようにまでなってくる。いわば自分自身、真実の助かりの為にお互いが信心の稽古に通うてくるのであり、修行に精進をさせて頂くのであると言う事。人じゃないまず、自分自身が助からなければならない。まず自分自身が助かってあなたがどの程度助かっておりれますかと。
はぁ私は一家中の事が祈れております。隣のことが祈れておりますと、本当に言えれる助かりでなからければならないと云う事。ところが祈れてはおるけれども、本人自身が不平不足を言うておったんでは、それは嘘だという事。それは自分が泳ぎも出来ずにです、おぼれておる人を助けておるようなものですから、これでは本当の助かりではないと言う事。自分自身がまず泳ぎを覚える事だと。
教えによってです日々の生き方あり方というものがです、拝んでおる時ではない。一服しておる時であろうが、寝ておるところであろうがです、自分が助かっておるというその、姿がですたい、不平がなからなければ不足もない、神様ありがとうございます、ある場合には相すみません、ね。有難い勿体無い畏れ多いというような、心の中に一杯そういうものが広がってくる時です。
そういう思い方というものはです、教えを聞いてです自分の心が心機一転する時です。こうならなければ助からないということではないのです。どう云う病気の中にあってもです、どういう難儀な事の中にあってもです、自分の心の中の助かりというものは、今すぐ自分の心一つで助かる事が出来るのです。その助かりの心を持って自分の難儀な事を願う。自分の助かりの心を持って、自分の周囲の者の事を祈っていくと。
そういう助かり方というのがです、自分を中心として段々、段々広がって行く様なおかげを頂いていってこそ、初めて私は助かりと言う事が言えれるのではないだろうか、また助かりの自分の程度でいうですかね、助かっておる度合いというものが、この程度であると言う事が、自分で分かると言う事になるでしょう。ははぁ自分がた信心を頂いていかげをを頂いておる、どの程度のおかげを頂いて居るかと言う事はですね、
自分で自分の心を、みれば分かるだけではなくてです、自分で祈っておるその内容を、検討してみれば、分かると言う訳になるのです。ね、為には何といったって信心はまず、私が助かると言う事なんだと。椛目の信心を、人とは、ね、どういう風に答えるといったような事が、とにかく、私自身が助かる事だと言う事だと、私は思うのですよ。ね、しかもその助かりがです。
自分を中心にしてだんだん広範囲になっていくという事がお道の信心の助かりであり、椛目ではどげな事ば教えらっしゃるのと言われるなら、とにかくあなた自身が助かる事だと。しかも只今助かりの道を教えて頂くんだという事が言えれる信心、これならばいつの時代でも、変る事はなかろうとこう思うのです。また皆さんが目指しておられる所がです、そこではなくてです、もしあられるぬ所に目指しの焦点がおいてあるとするならばです、それは焦点をかえなければいけないと云う事になるですね。
おかげを頂かなければなりません。